相手があってこそのゲームであるのはわかっていても、やりたいときに人がいつでも集まれるわけではない。なお未練がましくゲームを楽しみたいという人間は、なんとかして独りでゲーム楽しまねばならない。仕方なく夜中に用具をカッターで切り離したり、ルールを読んでみたり、あれこれ文献を調べてみたり、そんなことをしているうちにいろいろな楽しみ方が自然に身についたのか、思いの外飽きることがない。

橘の実を割ってみると二人の老人が碁を打っていたという例の話について、石川淳はこれを「形影問答」であり、「永遠に孤獨なるもののすがた」であると書いている(『夷斎筆談』)。しかし、この老人はいかにも楽しそうではないか。孤独とは楽しいものであって、おのれの影と碁を打つというのが究極の娯楽のあり方ならば、そのような風流なる娯楽の世界に遊んでみよう。そこで試みにこの部屋を「孤独の部屋」と名付けて、いつでも独りゲームに浸れる方法を探求してみたい、というといささか大仰だが、心がゲームの世界に飛ぶことができるとすれば、たとえ満員電車の中であっても橘の実の中とほんの少しだけ似てくるような気がする。そうこじつけて前口上を終える。

美化委員