「暑中休暇は來らんとす、風通しよき小亭に主客對座して閑に韜略を戰はせ、やまとの神仙はかうしたものと勝負を爭ふもまた妙ならずや。」(幸田露伴『折々草』・「將棋」)

 人がどんなゲームを好むかはそれぞれの趣向によるのだから、とりたてて非難する理由もなければ、またこちらの好みにいいわけがましくなる必要もない。とはいいながら、それを承知の上で、自分はこの(あるいはこのタイプの)ゲームが好きで、それはこれこれこういうわけなのだ、なとどとしゃべり合うのは楽しい。当会(FGC)でも、ゲーム会のあとにちょくちょくそんなようなことを話していて時間が経つのを忘れることがある。これもまたゲームの愉しみだろう。話を聞いてみれば、なるほどそんな楽しみ方があったかと膝を打ちたくなることもあり、もっとよくあるのは、そんなところが面白かったのかとあきれてしまうことで、意外さに吹き出してしまったりもする。
 例えば、うちのメンバーのロバ王は売り買いの要素があるゲームだと何だか生き生きとし始め、勝ち負けはどうでもいいというようなプレイを見せることがあるし、ハッタリを利かせるゲームであれば他の部分はともかくそのことだけが楽しいらしい。監視役はギャンブル系がお好みのようで、お金を賭けていないのにひとり手に汗をかいてプレイしている。ダジャレ委員は、一筋縄でいかないゲームがいいようで、ゲームとして成り立っているんだかいないんだかよくわからないゲームも感心しながらプレイしている。
 これらは一面に過ぎないが確かに個性の現れであり、知っておくとどんなゲームをどんな順序でやったらいいか参考になる。とくに当会のように小さな会であれば一体感は大事だから、ひとりでも楽しんでくれるゲームであれば、なんとなくみんなが楽しくプレイできるものだ。(ただし、ここでの「好き」「面白い」は「得意」というのとは違う。しかし、今このことを突き詰めていくと「なぜゲームは面白いのか」という問題になってしまうので、関心のある人にはホイジンガやカイヨワの本を読んでいただくことにして、話しをもとにもどす。)
 さて、私の好みはどうかというところからだんだんと孤独になってくる。
 おおむね私はどんなタイプのゲームでも平均して楽しい。そもそもあまりやる気のしないトレーディング・カードやロール・プレイング・ゲームはしばらくおく。当会でよくプレイされるドイツ・ゲームや伝統的なゲームに嫌いなゲームはないと断言するに吝かではない。もちろんサイコロの運の悪さにうんざりしたり、今日はこのゲームをやりたいという気分はあるにしても、どれも面白い。
 困るのはアブストラクト・ゲームといわれる一群のゲームである。実をいうと私はこの手のゲームが大好きなのだ。うちのゲーム会ではあまりアブストラクト・ゲームが好まれているとはいえず、少しでもアブストラクト風のゲームをもち出すときにはどこか卑屈になってしまう。多少なりともこうした傾向はどんなゲーム会でもあるものなのだろうか。「あんまり考え込まないから」などとついついいいわけしてしまうが、本心はじっくり考え込みたいのである。
 そんなわけで、ことアブストラクト・ゲームに関する限り、私はやるあてもなく買い集め、本のあるものは本を読み、ないものはひとりでやってみたり、ルールからどんなゲームか想像したり、孤独に楽しんでいるわけである。
 そして楽しむということとはまったく関係がないけれど、常々考えていたのがここまで敬遠されるアブストラクト・ゲームの定義である。いったいどういうタイプのゲームのどこが敬遠されるのか、ひょっとするとみんな食わず嫌いなのではないか。
 アブストラクト・ゲームの定義には、一般的に二つの基準がある。ひとつめは運の要素がないということ、もうひとつはテーマ性がない、もしくはあっても希薄だということである。
 しかし現実的にはどちらかの基準を使ってきっぱり定義できるというものではない。たとえば、運の要素があってもアブストラクトといいたくなるようなゲームもあり、テーマがあってもアブストラクトと言いたくなるゲームもある。(前者の例としてE. ソロモンの「ヒュレ7(エントロピー)」、後者の例としてチェスがあるだろう。)考えれば考えるほどうまい定義が見つからないので、さしあたり家族的類似でアブストラクトと分類しておいて、あとはそのうち暇ができたら考えてみようと曖昧なままにしておいた。

 そんな折り、ぼんやりとコーヒーを飲みながら、カナダで発行されている「Abstract Games Magazine」の第7号をめくっていると、エディトリアルに気になることが書いてあった。(この雑誌は編集発行人ケリー・ハンズコム(Kerry Handscombe)氏がほぼ独力で創刊したらしく、それほどページ数の多いものではないとはいえ、タイトルの示す通り希有なアブストラクト・ゲームの専門誌である。最近ではやや厚くなり、インタビューや執筆陣も充実している。)
 このエディトリアルでは、いったいどういう種類のゲームを指してアブストラクト・ゲームと呼んでいるのかという読者からの質問に対し、ハンズコム氏が自らの見解を述べているのだが、いい加減に斜め読みしていた私もちょっと考え込んでしまった。というのは、すべてのボードゲームをアブストラクト・ゲームと見なしてもかまわないとされているからだ。どんなボードゲームであってもテーマという衣装を剥ぎ取ってしまえば下敷きとなる抽象的な構造があるのだから、という立場である。
 いろいろ考えさせられた。そして少しすっきりした。確かにR. クニツィアやD. ヘン、最近ではL. コロヴィーニのような人のいくつかのゲームはほとんどアブストラクトといってもいいのではないかとも思っていた。テーマはとってつけたようだけれども、抽象的な構造がしっかりしているからこそシンプルでそこそこ深みがあるゲームになっているものがドイツ・ゲームには多い。私がドイツ系のゲームにひかれたのもその点にある。
 こう考えると運のあるなしにかかわらずすべてのボードゲームがアブストラクトとなり、強いて違いをあげれば抽象の程度の違いだけになるから、実質的な解決になっていないという反論はあるだろう。それはともかくとして、アブストラクト・ゲーム好きはやや気が楽になるのではないか。アブストラクトは不当な扱いを受けているといった卑屈な感情も薄らぎ、気軽にこの手のゲームを持ち出せる。とまではいかないかもしれないが、敬遠していた人も普段やっているドイツ・ゲームとそれほど違わないと思えば、抵抗感がわずかでもなくなる気がするが、どうだろう。

美化委員

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