我々は、傍役へのオマージュを捧げたいのであって、便利で客観的な百科辞典[原文ママ]を作りたいわけではないのである。“グラフィティ”と題したのはその意味でである。」(川本三郎・真淵哲『傍役グラフィティ』)


 つい先日、あらかじめ出かけるつもりだったところが予定変更になり、終日何の用事もなくなってしまったので、ダジャレ委員と相談して、久しぶりに古本屋でもまわろうかということになった。とても寒い日ではあったが出かけた甲斐があって、10冊ほどの収穫を得、まあご機嫌で、外出の仕上げに私たちの大好きな店のステーキとハンバーグを平らげたわけである。
 この日手に入れた本の中に、川本三郎と真淵哲の『傍役グラフィティ』(ブロンズ社)があった。「現代アメリカ映画傍役事典」とサブタイトルにあるように、主にニューシネマ以降の傍役(「わきやく」と読むんでしょうね)を紹介した本だ。

 だいたい私も傍役には非常にこだわるタチで、傍役が印象に残る映画は他人はどう言おうといい映画だと思っている。したがって傍役の使い方がうまい監督はいい監督である。私の大好きな岡本喜八は、その点で素晴らしい。中谷一郎とか天本英世、砂塚秀夫などなど、いい味ですよねえ。岸田森なんていう人は、偏愛といっていいくらい私は好きで、出演しているというだけで観てしまうが、岡本喜八監督作品では「斬る」の哀愁ある役柄もよかったし、「ダイナマイトどんどん」でピンクのスーツを着こなしていたのはうなった。もっとも岸田森には円谷プロの「怪奇大作戦」もあり、また吸血鬼ものの「血を吸う」シリーズもあって、実相寺昭雄監督映画で主演もしているから傍役とはいえないのだろう。「血を吸うシリーズ」DVDのおまけには「岸田森吸血鬼貯金箱」なんてのも付いていた。今となってはこれも宝物だ。
 以前、小林旭ファンであることは告白したが、日活黄金期の傍役も嬉しがらせてくれる。小沢昭一、西村晃、藤村有弘、金子信夫…、いいねえ。溜め息が出る。赤木圭一郎の「抜き打ちの竜」だったか、中国人役の西村晃は素晴らしくてひっくりかえった。金子信夫は、この日活の傍役の感性がのちに東映の「仁義なき戦い」の山守へとつながったのではないか、と日活贔屓の私はそう思ってしまう。だいたい「仁義なき戦い」は群集劇だから傍役が光っていることこの上ない。また大映は伊達三郎ですよね。この前、久しぶりに東映の「新幹線大爆破」を観ていたら、乗客に伊達三郎がいたので嬉しかった。ちなみに日活にいた近藤宏も出ていて嬉しい。
 こんなふうに、映画好きの人と話していると、日本映画だけでも尽きない傍役談義が延々と続くのである。しかも、ホームシアターを作ってから傍役の顔がよく見えるので、観ている最中に「あ、伊達三郎っ」とか、「沢村いき雄が、こんなかたちでっ」とか叫んでしまって、ダジャレ委員には申し訳ないと思っている。
 アメリカ映画ともなると当然傍役がわかってきて更に面白さが倍増する映画が多いから、それで『傍役グラフィティ』も長いこと欲しいと思っていた本だが、さほど珍しい本ではないし、この日もとくに買うつもりはなかったところ、値段が非常に安かったので買ってしまった。
 いや、そんなケチ臭い話はどうでもいいが、我慢できずに『傍役グラフィティ』だけは帰途、電車の中でカバンから引っ張り出すことを禁じ得なかった。横からダジャレ委員ものぞき込んで「この人、『スティング』に出てたね」「『合衆国最後の日』じゃ大統領だった」なんて、やりはじめると時間はあっという間である。(ちなみに、この会話で話している俳優は誰でしょう。)
 ロイ・シャイダーはこの前亡くなった、「ロンゲスト・ヤード」のエド・ローターまで出てる、ロバート・ライアンは傍役か、じゃなんでアーネスト・ボーグナインやリー・マーヴィンは出てない、あの二人はオスカーで主演とってるからね、するとリー・ヴァン・クリーフも後で主役になったからねえ、うひゃあリチャード・ジャッケル、すぐ殺される人、……なとどやっぱり尽きない。飲み屋で続きをやりたくなってきたが、要するに映画の傍役は大事だということがいいたい。
 やっと本題。ここからが「孤独の部屋」です。傍役があるのなら、傍役的ゲームがあるのではないか。略して傍ゲー。仮に一日のゲーム会を一本の映画にたとえるなら、ちょっと前のゲームではあるが「カタン」なんていうのは華があって主役でしょう。でもゲーム会というのはそれだけではなりたたない。なかにはすごく個性があって、万人が褒め称えるわけではないけれども、一部の人を妙に惹きつけてやまないゲームというのがあるのではないか。そんなのもゲーム会でやってるわけです。趣味の世界でみんな似たようなこといっても面白くない、これを「わきげー」という響きは甚だよろしくないが、「傍ゲー」と呼んで、思いっきり偏愛ぶりをアピールしたら楽しいのではないかと考えた。それで「いい味だねぇ」「いい傍っぷりだ」なんて喜べばいいのではないか。題して、『傍ゲー・グラフィティ』。
 いつもはここから孤独に暴走しはじめるのであるが、今回はこの企画に不安があったので初めてダジャレ委員に前もって聞いてみた。当然ながら、怪訝な顔をして「どんなゲーム?」と尋ねられた。私があげたのは、まず、

・牧場の春
 微妙に小さい牛のコマ。放牧というテーマ。かといって結構面白い。主役ではないが、いい味出している傍役ではないか。
 するとダジャレ委員は「確かに、傍っぽい」と少し理解してくれたようである。それからダジャレ委員があげたのは、

・クランス
 理屈はよくわからないが、カラフルだけどコマを寄せたり、こじんまりしているところがちょっと傍っぽい。しかも、なかなか味がある。
 こうしてみるとデザイナーのコンラートとかコロヴィーニなんていう人は「傍体質」のデザイナーではないか。この二人のゲームは傍っぽさを感じさせる。「フィノ」や「マウアー・バウアー」は傍役で注目された俳優が主役になった感すらある。これは小粒なゲームということでもなくて、クニツィアやクラマー、ローゼンベルクなんて人は小さいゲームでも華やかさがある。ドーラのゲームは性格俳優か。しかし「オリンピア2000」などが傍役かどうかは議論の余地がある。(もちろん議論してもどうしようもないが。)
 では、続き。

・ミスターダイアモンド
 いやあ。傍ゲーでしょう。持ち上げてみるってところが。

 難しいのはラベンスの軽めのゲームといっても「ドラダ」や「穴堀モグラ」になると傍ゲーという感じがしないところである。

・エシュナプール
・コロラドカウンティ
 こうしてみると派手さや大きさではないです。シュタウペも傍ゲー・デザイナーなのですかね。この2つは傍ゲーという感じがしますが。

・M
 アブストラクトはSF的なものとたとえることができるのではないか。そうなるとあまり主役か傍役といっても仕方がないような気がする。しかし、「M」はなんとなく傍っぽい。

・フォッシル
・建築家たちの祭典
・密使
・デリーの蛇つかい
 ここまで来ると傍ゲーであることは誰も目にも明らかであろう。


◆美化委員が考える傍ゲーの例。取り出しやすいところにあったもの。
もっと奥の方に美化委員自身が忘れている傍ゲーが眠っているにちがいない。

 悩んだのはたくさんあるトリック・テイキングである。あまりに悩んだので、原典である『傍役グラフィティ』を参照すると、「女優はすべてヒロインであるべきであるから、傍役には含めない」という文言が目に入った。(当然ながら、この本のこういう参照の仕方は完全に間違っている。)そうだ、トリック・テイキングはゲーム界の女優である。だから傍ゲームにはいれない。このように完璧な理論武装が終わった。しかし、

・命中
は、なんとなく傍ゲーに入れたくなる。

・宝石の首飾り
 こうなると懐かしゲームに近くなってしまっている気もするが、でも変わっていて面白かった。

・やさい畑
 これはいいゲームだ。特に家庭菜園を始めてからは興味深い。一方「でっけえ馬鈴薯」は同じ農業ゲームでも堂々たる主役であろう。
 まだまだ、まだまだあるだろう。

 定義をしてもしょうがないが、ここまで考えて私なりの傍ゲーとはどんなものか記しておきたい。

(1)どちらかというと賞には縁がない。
(2)派手でダイナミックな展開よりも地味なゲームが多い。
(3)なんとなく一味変わった独特のルールがある。
(4)一部の人には妙に面白がられ、そうでなかった人の印象にも何だか残る。
(5)トリック・テイキングとアブストラクトは原則的に除外される。
(6)ゲーム会では合間に取り入れやすいものが多い。
 
 くりかえすが、これはすべて趣味の話である。「なんだマイナーなゲームのことか」なんていっては身も蓋もない。遊びでやっているのだからいろいろ楽しみたいというだけである。メジャーなゲームだけを楽しむのもいいし、江戸っ子が初ガツオを喜んだように、青田買い的なゲームの楽しみ方があってもいいのはもちろんである。私は「傍ゲー」ということで、あまり語られることがなかったが個人的な思い入れの強いゲームに関して、「あれ、またやってみない。いい味の傍ゲーだったよ」と仲間うちで言いやすくなるのではないかということを期待しているわけである。もしくは、「あれは傍かな。主役だろう」とか「傍にも値しないよ」とか決着のつけようのない会話を楽しむよすがになってくれればいいと願っているのである。
 そんなわけで、「傍ゲー」の定義が曖昧だ、と御怒りの皆様は御寛恕願いたい。『傍役グラフィティ』にあるように、ゲームへの一種のオマージュだと御理解下さい。

美化委員

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